ラタナキリの奥地にある少数民族の墓地を見てから、ボートに乗って一度ベンサイの方へ戻り、今度は川を反対側に10分ほど進んでいくと、そこに中国村がありました。
もともとバンルンの街もベンサイ集落も、ラタナキリ全般的に中国っぽい家や商店が多いのですが、この村はしっかりと中国してます。クメールの高床とは全く違う形式の青い家が数軒並んでいて、なるほどみなさんの顔も中国人っぽいです。ここの住民はカンボジア全土にたくさんいるいわゆる華僑ではなく、国共内戦時に逃げ延びてきた国民党の人たちだということです。ほんとかどうかわかりませんが。
しかしやはり中国人、周辺の商業をしっかりとおさえてるらしく、どの家も金持ちそうでした。
その中国村と隣り合わせてラオ人の村があります。戸数的には中国村よりはるかに多く、1kmほどにわたって点々と家が続いています。
こちらは高床式でクメールの家と違いがよくわかりませんでしたが、違うといわれれば違うような同じような。
住んでる人たちも外見はクメール人と同じですね。話をしているところを盗み聞きしてみましたが、ボーとかドーとか言っていたのでラオ語のようです。
ここにラオの村があるのは別に不思議なことではなくて、行政上はカンボジアになっていますが、ラタナキリ北部やストゥントレンあたりはもともとラオ族の土地です。いまもこんなラオ族の集落は各地にあるようです。
ラオの村のはじっこにお寺がありました。丸い仏塔があったりしてラオスっぽい感じもありましたが、看板はクメール語だしクメールのお寺なのか疑問に思っていたところ、ちょうどお坊さんたちが外から帰ってきたのでお話を伺ってみました。
やはり彼らはラオ人でここもラオのお寺だそうです。みなさんクメール語はできるようですが、普段の生活やお勤めはラオ語だとか。
2つの村を見学させてもらった後、またボートに乗ってベンサイへ戻ります。
村の広場にトゥックオンパウ屋のおばちゃんがいたので、さとうきびジュースを飲むことに。なぜかドライバーの彼のおごりでした。コープチャイノ。
帰り道、またまたバイクがパンク。
僕はハプニングがあればあるほど楽しめるほうなんですが、ドライバーがかなり申し訳なさそうにしています。
すぐに後ろからやってきたピックアップを止めて、僕だけそれに乗せてもらってバンルンまで帰ることになりました。ドライバーはバイクを押して近くの修理してもらえる家があるところまで歩いていくらしい。大変だなー。
さて、その乗せてもらったピックアップは、イタリア人の観光客のもので、イタリア人5人とドライバー、荷台にはガイドが乗っていました。もちろん僕も荷台に乗ったので、ガイドの彼といろいろ話をしながら帰ってきました。
話を聞くと、彼はクメール人ではなくタンプオン人だというではないですか。怪我の功名というかなんというか、ありがたくタンプオンの興味深い話をたっぷり聞くことができました。